宝塚舞台で起きた悲劇:香月弘美さんが事故死した「13秒間の地獄」とは?慰霊碑に込められた思い

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兵庫県宝塚市にある宝塚音楽学校。

その駐車場の片隅にひっそりと建つ「小さな慰霊碑」は、今ではほとんど知られていません。

しかしこの碑には、1958年4月1日、宝塚大劇場で起こった衝撃的な舞台事故で命を落とした新人娘役・香月弘美さんへの祈りが込められています。

わずか13秒間に起きた悲劇の全貌を、今改めて紐解きます。

目次

事故の概要と発生の背景

1958年(昭和33年)4月1日午後6時25分頃、宝塚大劇場で「春の踊り 花の中の子供たち」(花組公演)が上演されていました。

この作品は高木史朗さんの演出によるもので、観客は3,000人以上という大盛況でした。

一方、同じ日に東京宝塚劇場では火災の修復後に再開されたばかりの緊張感のある状況下で、皇族を迎える天覧公演が予定されていたという状況もありました。

そして兵庫の大劇場では、病気によって出演予定だった娘役の急病欠により、月組新人の香月弘美さん(芸名・かつきひろみ、当時21歳)が急遽代役として舞台に上がったのです。

セリによる事故の詳細

香月さんが演じていたのは、第12幕「トランプの国の宮殿」。

恋人同士のハートの8(香月さん)とハートの7(松島三那子さん)の追放のシーンで、2人は姿を消すために昇降装置・「セリ」へ向かいました。

その瞬間、悲鳴が響きます。

「やめて…!」。

香月さんのスカートがセリのシャフト(回転棒)に巻き込まれ、右足を潰され、さらにスチール製のベルトが腹部を強く締め上げられました。

悲鳴からわずか13秒後、香月さんは胴体を切断されて即死してしまったのです。

親友の松島さんは「セリに巻き込まれて怪我をした」と勘違いし、「とめてー!とめてー!」と叫び駆け寄りましたが、背中にはすでに香月さんの血が付いていました。

あまりの速さに、現場にいた誰もが事態を把握できなかったといいます。

事故後の対応と観客への説明

演者の事故死によって当日の公演は中止に。

その晩のうちに関係者は対応を協議し、翌日4月2日からはセリを使用せず、代役を立てて公演を再開しました。

観客には、事故に関する詳しい説明はされなかったものの、責任者である課長が舞台上で「事情説明」を行い、唖然とする場内にはすすり泣く声も聞こえたそうです。

悲劇を受け止めつつ、公演は続けられました。

なぜこの事故は語り継がれるべきか

この悲劇は、舞台の華やかさとは裏腹に潜む危険性を象徴しています。

舞台装置、特に「セリ」のような機械装置の安全管理の重要性を改めて示す事故であり、大切な命が一瞬で奪われた事実は、どの時代にも忘れてはならない教訓です。

また、若い才能が突然失われたという悲劇は、宝塚歌劇団にとっても深い衝撃であり、その痛みを静かに忍ぶ慰霊碑の存在こそが、「忘れない」意思の象徴となっています。

ネット上での反応と声

ネット上では、下記のような声が寄せられています。

・「たった13秒で人生が終わるなんて…恐ろしすぎる」

・「舞台の裏でこんな悲惨な事故が起こっていたなんて初めて知った」

・「慰霊碑を見たことがある。近くを通るたびに胸が痛む」

当時の事故を知る人が少なく、また周知が進んでいない今こそ、“意識を共有”することが重要だと多くの人が感じています。

まとめ

1958年4月1日、宝塚大劇場で起きた香月弘美さんの悲劇は、たった13秒間で命を絶たれた恐怖の瞬間でした。

その記憶は、宝塚音楽学校の駐車場にひっそりと建つ“慰霊碑”となって、今も静かに彼女の存在を語り続けています。

華やかな舞台の裏には、命懸けの努力と危険があることを私たちは忘れてはいけません。

当記事は以上となります。

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この記事を書いた人

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筆者は富山県出身&富山県在住。

Bリーグの富山グラウジーズを応援しています。

写真の撮影をしており、撮影の対象は選手やチア、綺麗な風景です。

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